成熟社会と「贈与経済」論

「贈与経済」論(再録) (内田樹の研究室) 「贈与経済」論(再録) (内田樹の研究室)より

贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことはできなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。
別に突拍子もないことを言っているわけではありません。本来、貨幣というのは、交換の運動を起こすためにあるものなんですから、誤って退蔵されているなら、それを「吐き出させ」て、回すのが筋なんです。その方が貨幣にしたって、「貨幣として世に出た甲斐」があろうというものです。

これって最近読んだ小野善康の主張によく似ている。もちろん、この前後にある能書きだの処方箋的なところだのはぜんぜん違うのだが、問題認識は、ほぼほぼ一緒と言い切ってしまってかまわないのじゃないだろうか。

貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。その日まで、自己利益だけ追求して、孤立して生きてきた『クリスマス・キャロル』のスクルージ爺さんみたいな強欲な人が、ある日株で儲けたから、宝くじで当たったからと言って、このお金を貧しい人たちにあげようと思い立っても、どうしていいかわからない。贈りますと言っても、たぶんみんな気味悪がって、受け取ってくれない。

スクルージを持ち出すところまで同じである。


成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか (岩波新書)

成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか (岩波新書)


管政権の経済政策ブレーンをつとめ、「増税で景気回復!」みたいな主張が切り出して取り上げられていたが、もう少し奥があるようなのでとりあえず読んでみたもの。

お金を保有したくなってしまう欲求にはキリがないというのがポイント。この場合の「お金」は通常の意味での貨幣に限らない。本書ではあまりそこは直接に解説されていないが、推測するに株だって土地だって価値を表象していて取引がされるのであれば「お金」的要素があると考えてよいみたいだ。そうなると、お金への欲望が土地や株に向かえばバブルが起こり、お金そのものに向かえばデフレと不況が起こる。両者はコインの裏表でしかなく、背後にあるのはモノ・サービスに対する供給力過剰と需要欠如だ。これは肌感覚的に説得力がある。


かと言って、、、内田樹の唱える「贈与経済」もそのまま実現できるとは思えないが(でも、おっしゃることには共感)、小野善康の唱える対策も、政府が高齢者へ現物支給するだとか、環境だ新エネだで「それって思いつき?」との疑念がめばえる。社会保障にしろ復興にしろ環境にしろ、多分やった方が良さそうで、政府がやることで良さそうで、今現在十分にできていないことはたくさんある。公務員人件費削減の自虐プレイなんかしていないで、多少は増税しようが何しようがそういうことにしっかり資源を投入することは必要だろう。でも、この本の議論はちょいと極端で引いてしまう。そこまでしないと需要を見出せないのか?具体的にどうしろとは言えませんが。。。

高齢化しても供給力過剰は続くとの見方だが、そこもよく分からない。リタイア年齢を延ばす余地がどれほどあるか、若年層に未熟練な労働者(あるいは失業者)が増えているであろうことなど考えると心配。供給力過剰の成熟経済から別の方向へ潮目が変わらないのか。