『テキヤ稼業のフォークロア』厚香苗 身近な知られざる世界

テキヤ稼業のフォークロア

テキヤ稼業のフォークロア

自身も墨田区出身の研究者が、墨東地域のテキヤ社会のフィールドワーク(2002-03年)をまとめたもの。テキヤが学問的な研究の対象になることには意外感もあったが、ほうっておくと文献資料が残らないので、あるうちに調査しないとそのまま失われてしまう民俗についての貴重な研究と言える。定量的な調査が困難で聞き取り中心にならざるを得ない限界はあるが、テキヤに対して多分にシンパシーを抱いているであろう著者の筆により、誰もが身近に見知っていながら実態のよく分からないテキヤ稼業の息吹が伝わってくる。また、社会学での先行研究では混同されてきたテキヤ内の言葉を整理するなど、なかなか地道な研究成果も含まれる。

なお、本書で定義される露店商=テキヤの性質は以下の通り。

  • 露店商いで生計を立てている
  • 親分−子分の擬制的親族関係をつくる
  • 「昔から」「伝統」という言説で、口頭で商いの権利を主張する
  • 集団は商圏としての縄張りを持っている
  • 地域住民との関係が良好 (墨東地域では「テキヤさん」と呼ぶ)

実際、テキヤたちの知識は口伝や体験によって伝承されている。最近では名乗り名(テキヤの仲間内での呼び名)を告げる挨拶の口上が文書化される傾向があるなど、テキヤの世界にもOA化の波がいくばくか押し寄せているようだが、昔のテキヤはそういった割と長い挨拶文も自分用にこっそりメモを取る程度で基本的に暗記していた。口伝で知識を伝えるのは効率が悪い。祭りや縁日の場に屋台を出している人間の内でも、テキヤ集団内外での縄張りの調整などについて、一通りの詳しい知識を持っているのはもっぱらテキヤの親分たちだけであるそうだ。著者もテキヤたちにヒアリングを重ねた上で、彼らの記録簿であるテイタ(手板、現在ではスケッチブック等を利用)の分析までするが、テイタの記述には意味の取れないところも結構含まれる。おそらく、情報を寡占することは祝祭空間を掌握する力の源泉の一つになっているのではなかろうか。それはテキヤのちょっと怪しい魅力にもつながるし、もちろん部外者から見た胡散臭さにも通じているだろう。

もうひとつ興味を引いたのはテキヤの血縁否定だ。この否定には裏表のベクトルがある。まず、新入りがテキヤの親分に入門するにあたっては、実の親子の縁を切ってテキヤの親分を(その名の通り)親とする誓約を立てる。もっとも、テキヤの世界に入ろうとする人間は、実の血縁などの世間から既に何らかの理由ではみ出たアウトサイダーであることが多い。もう片方のベクトルとしては、一般にテキヤはジッシ(実子)に跡を継がせることを嫌い、ほとんどタブー視している。テキヤ集団は地縁・血縁から離れた単身男性を主な構成員として想定しており、親分は新入りを孤立させることなく、社会的な居場所を与える。こうした地域社会への帰属感があると、貧困は貧困でも「暗い貧困」にならない。社会のなかでの一種の「タメ」としての存在感を発揮している。血縁否定は、一般世間から距離を置いた世界を形作るためのの道具立てとも考えられる。
(なお、自分の研究をILOが言うところのインフォーマル・セクター研究ではと言われることがあるが、筆者自身は違和感あり。民俗学がこれまで「都市下層」をスルーしてきたので、民間伝承をネガティヴな「因習」まで含めて掬い取るフォークロアとして研究したかった由。)

暴力団排除条例が施行されるなど、「3割ヤクザ」という人もいるテキヤ稼業には逆風が吹いているそうだ。暴力団ど真ん中に対して毅然と対処すべきことに異論はないが、何事にもグレーゾーンというやつはあるようだ。あまり整然とした社会であると、はみ出した人はどこに着地するのか。先日読んだホームレスの話みたいなのもあるが。