『古事記誕生』工藤隆 1300周年です

古事記誕生 (中公新書)

古事記誕生 (中公新書)


先日、なぜにいま「古事記」なんだろう?、などと疑問を発したが、今年は古事記が誕生したとされる年から1300周年なのだそうだ。なーんだ。

けれど『古事記』の成立については懐疑的な見方も多い。現存する『古事記』の最古の写本は1371,2年筆写の真福寺本。オリジナルから実に600年以上後だ。また、すぐ後の『日本書紀』・『続日本紀』に、『古事記』についての記述や引用が見られない。よって、本当はもっと後世に成立したのではないかと言う古事記偽書説が唱えられることになる。

偽書説に対する本書の見立ては、肯定も否定も確証はないと断った上でだが、仮名遣いなどから判断して本文が712年頃か少なくとも遠く離れていない時期に成立したことは間違いだろうとしている。また、なぜ日本書紀と同時期に似たような歴史書を編纂するのかという不自然さに対しては、中国からの外来文化(外向けに漢文で正史を編纂するというのがまさにそれ)に対抗して日本旧来のアニミズムを称揚する目的があったとして、むしろ『古事記』の性格は『日本書紀』との対比からより明らかになると主張する。

さて、こうした『古事記』成立の年代についての疑問は「点としての誕生」にまつわる議論として、それを一応は片付けた上で本書が主題とするのは「線としての誕生」、すなわち『古事記』の背後に横たわるさらに古い無文字時代の要素を探る方法論だ。資料がないからと言ってあきらめないで中国奥地の「原型生存型文化」にヒントを求めましょうということ。また「話型」「話素」の分析だけでなく、歌われるのか語られるのかといった「表現態」、どのような場で歌い/語られるのかといった「社会態」にも注目しましょうと。観光客や調査に来た学者相手に語って聞かせるのと、ムラの行事や歌垣で歌うのとでは全然原型のとどめ具合が違うはずということ。こうした議論は面白いのだが何か白黒つけるような確証がなかなか得られないのが大変なところだろう*1

本書でサンプルとして掘り下げるアメノイワヤト神話からは、皇室儀礼(神祇令)の鎮魂(たまふり、魂を揺さぶって活を入れるイメージ)、新嘗、大嘗祭などのルーツが大変に古い層にあること、酔って吐くのが神懸りのしるし*2とされていたであろうこと、アマテラスが岩屋に隠れるのに卑弥呼の死のイメージが重なること、長江流域少数民族の神話との共通点が見出せること、などが分かるという。

*1:白川静の本を読んでいても似たような感想をおぼえる

*2:わたしもたまに神懸りします