『津浪と村』山口弥一郎  昭和18年の三陸海岸

津浪と村

津浪と村


オリジナルは昭和18年刊行。前の大津浪から約10年が経過したところ。

第一篇「津浪と村の調査記録」は、昭和10年から何年にもわたって繰り返された調査旅行を、南は牡鹿半島から北は下北半島の尻屋崎まで北上する順に再構成して記述していく。第二編「村々の再興」では、津浪後の集落移転についてあらためて横並びに分析する。

集落ごとに1896年の津浪後の集団移転の試みが、1933年の津浪被害にどう影響したかが述べられている。対応、顛末は集落によりバラバラであるが、きれいに集団移転できた集落は少ない。一度は移転したが不便さにより原地復帰したパターンが多いようだ。また集落成員のほとんどが犠牲になって移住者で再興されたがために、被害の知識が伝わらずに低地に居を構えてしまった皮肉な例もある。また、移住者が浜に居を構えると、高地移転していた漁業者でも生業上不利になるのでつられるように浜に移転してしまう。

集落移転がうまくいかなかった要因は、漁民が海から離れる不便さ、井戸確保の困難、土地不足、氏神の所に戻ってしまうなどだ。現在に置き換えると、漁民が高地に移る不便さも自動車の普及で緩和されているだろうし、水道も何とかなるだろう。住宅地が絶対的に足りない地勢のところはともかく、耕地の必要も減じているはず。昔は諦観して原地復興していたのが、1896年、1933年と経るごとに、文明の進歩にともなって段々と移転の方向へ動く傾向も感じられる。また、過去は人口増の圧力があった時代が多いだろうが、幸か不幸か今は違う*1。しかし、都市化が進んだ地域では移転が困難なことを著者は指摘する。それが現代での主な阻害要因かもしれない。

ずっと昔の集落跡が高地に多いことも触れられる。昔の人が、伝承により津浪の危険を知っていたのか。もしくは低地にも集落があったが、何十年かに一度は流されてしまうので跡を見出しにくいのかもしれない。田老の海岸を掘ると、浜砂の下から茅などが出てくるとあるのが、その証左かもしれない。大学の授業で聞いたことのある昔のアフリカの話、眠り病(河川盲目症だったか?)によってヒトが川沿いの低地と高地の間をずっと増減を繰り返しながら暮らしていたという話を思い出した。自然の一部としてのヒトである。

第三篇「家の再興」では、構成員が全滅したような世帯でも、近親者、他家へ嫁いだものの呼び戻し、場合によっては無関係なものまで世話役が連れてきて「家」を復興させる様が記録されている。これは民俗的には家の仏を守る意味合いがあり、経済的には土地、漁業権といった資産、さらには義捐金の受け皿となる意味合いがあった*2。家に焦点が当たるところは今とはだいぶ感覚が違うようだが、経済的な観点で考えると、「家」が社会的ニッチを現しているようにも思う。人口増加圧力はあった時代だ。被災しなかった世帯の次男坊にしてみれば家を継ぐニーズはあったはずだ。また、被災地への人口流入は、内陸よりは南から来る同じ漁業者(移動性に富む)による所が大きかったという。

最後に、1960年のチリ地震津波の前後の新聞への寄稿を収める。当時にしてみると「想定外」の被害だったようだが、著者は、三陸地震の津波であればこんなものではない、と警鐘を鳴らしていた。

*1:人口流出・過疎化が加速される心配がの方が大きい

*2:今だと無関係な人に家を継がせて義捐金をもらわせたら問題になるだろうな