『東京の戦争』吉村昭  70年前のできごと

東京の戦争 (ちくま文庫)

東京の戦争 (ちくま文庫)


毎年、夏場になるとテレビや新聞で太平洋戦争にまつわる番組や記事を多く目にする。原爆投下や終戦は8月だったにしても戦争や空襲はそれまで年中やっていたわけで、こういった「季節性」については紋切り型など批判する向きがある。批判には一理あるが、その是非は別として私にも「8月といえば戦争モノ」という感覚が刷り込まれてしまっていて、この時期になるとこんな本に手が伸びてしまう。

戦争や終戦直後の混乱を体験した14歳から19歳までの記憶が書き綴られている。空襲、物資不足、戦時下の人間模様、人の死。60年ほどの時間を経たうえで書かれているせいもあるだろうが、若かった著者の観察眼はとても冷静だ。単に冷静なだけでなく、一種の虚無感さえある。著者はそれなりに裕福な家の生まれのようだが、この期間に両親を病気で亡くし、兄弟からも戦死者が出ている。著者自身も結核で苦しんでいた。死が身近な故の諦念だろうか。戦争に負けてそれまでの秩序・価値観が崩れたアノミーによるところもあるかも。

この少し怖いようなクールさからは、色川武大の『怪しい来客簿』を思い出した。あの短編集も戦中や終戦直後に時代をとった作品が多かったはずだ。作風はぜんぜん違うが、1970年代生まれの人間からすると同じ時代の空気がするように思える。また、著者が山梨へ列車旅行するくだりからは『楡家の人びと』のラストシーンを思い出した。

死が身近といえば、父親の遺体をリヤカーで火葬場へ運ぶ描写があった。それを読んで、ひとつ個人的な記憶が蘇ってきた。10年以上前になるが、職場の気の合う同士で夜中にやっている神社の縁日へ出かけた。その帰り道だったから、もう2時か3時くらいの真夜中だったと思う。車でちょっとした峠道に差し掛かったときに、ハンドルを握っていた当時50台のおじさんが珍しくしんみりと語りだした。曰く、子供の頃にこのあたりに住んでいて、亡くなった家族(親だったか、祖父母だったかちょっと思い出せない)をリヤカーに乗せて、焼き場までこの峠道を越えていったのだそうだ。まだ小さい頃だったが、とにかく家に大人の手がなくってリヤカーを後ろから押していったのをよく覚えていると。あまり詳しくは語らなかったが、話を聞いてひんやりするような孤独を感じたので今まで覚えていた。時代はたぶん昭和20年代前半だろう。70年前の日本には当たり前にあった風景だと、この本を読んで知った。

自分が子供の頃は、寝る前に父親の小さい頃の話をよく聞かせてもらった。父親は昭和13年生まれなので空襲の記憶もある。その頃は、30年以上前の話なんてホントに昔のことだと思ったものだ。大人の感覚でいうと、江戸時代の話をされているような時間感覚があった。今こうして自分がその頃の父親に近い年になってみると、相対的に戦争の時代が近づいてきた気がする。子供の頃は自分が生きてきた時間より何倍も昔のことだったが、今は自分の年齢の1.7倍しか隔たっていない。そう、ほんの少し前まで家族の遺体をリヤカーに乗せて運ぶこともあったのだ。