『太陽を曳く馬』高村薫  ようやく読みました

太陽を曳く馬〈上〉 太陽を曳く馬〈下〉
マークスの山』が直木賞をとったのが1993年。学生だったこの頃からしばらく高村薫*1にハマッていた。当時はお金がなくて主に図書館に頼っていたので、旧作をポツポツと借りて読むような付き合いかただった。警察組織の内側や、金庫破りの手口や、虚々実々のスパイ合戦やらを、まるで見てきたように緻密に描ききる作風に惹かれた。これほど骨太な作品を書けるミステリ作家はそういないと今でも思う。

しかし、この作家独特のクセが鼻についてきだしたのも確かで、『レディ・ジョーカー』かリライトした『李歐』のあたりからのような気がする。とにかく文体や独白がねちっこいのだ。ドライな描写と、粘っこい観念的なところとを併せ持っているのが魅力であるが、その両者のバランスで後者が優勢になってきた。『晴子情歌』が出たときは新境地のように言われたが、典型的なミステリの枠に収まりきらないそうした傾向は一貫してあったと思う。『晴子情歌』を読んでみても作風が変わったとはまったく感じられなかった。ただ、ますます高村薫的になった高村薫がそこにいたとだけ申しておきましょう。

もともと新刊が出たらすぐに飛びつくような読み方はしていなかったのだが、熱が薄れてきて出版から読むまでのインターバルは年単位で広がる傾向になっていた。それでもいつかは気になって読む、というパターンは続き、新作を読むたびにさらにクセは強まっていった。10年以上前だと思うが、誰か*2田村正和の芝居を指して「どんどんセルフパロディ化して、田村正和田村正和の真似をしている」という意味のことを書いていた記憶がある。高村薫の作風からも、それと同じような印象を受ける。自家中毒、という単語さえ浮かんでくる。

この『太陽を曳く馬』は現時点でも最新長編であり、すなわち高村薫高村薫化の現時点での極北と言える。ほとんどストーリーらしいストーリーは解体されてしまい、観念的な宗教談義が延々と続く。長まわしの独白と言えばまさにドストエフスキーだが、21世紀の日本でドストエフスキーをやられて「はい、そうですか」と素直に受け容れるのも簡単ではない。小説と言うよりも、舞台作品、戯曲を読んでいるような感覚であった。

しかし、それでもこの作家を読むのをやめられないだろう。観念的な宗教談義にしてもただそこに放り出されているのではなく、これまた一つ一つ積み上げるような描写に裏打ちされているからだ。例えば『晴子情歌』で何が印象に残ったかと言えば、ニシン場や遠洋漁船の眼前にあるかのような描写だった。それがあるからこそ、血族のドロドロしたドラマにも生命が吹き込まれていた。また、本作でも死刑制度やら責任能力やら厄介な問題と切り結んでおり、その姿勢にも敬意を払わざるを得ない。

*1:本当は「高」の字は「はしごタカ」だそうですが、文字化けするかもしれんので

*2:ナンシー関