『オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義』  まさに学問の仕事

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義


ここ一年足らずででオウム真理教の指名手配犯逮捕がちょっとしたニュースのネタとなっていた。地下鉄サリン事件からはや17年、裁判も基本的には終結し*1、事件に直接の関連がなかった人間にとってはオウムなんて昔話に属する話題かもしれない。しかし、関係者にとってはそう簡単に過ぎ去ったことにできない重い事件だ。そんな「関係者」の一角に宗教学者たちがいるらしい。宗教学界の一部が事件発覚前にオウムを後押ししてしまった経緯があって、更に事件発覚後もその総括ができていないために社会的な信頼を失っているというのだ。この本はそうした問題意識のもとに、オウム真理教とは何であったのかを、まさに専門であるはずの宗教学の切り口で捉えている。

オウムを説明しようとした宗教学者や社会学者たちの多くは、問題を現代日本社会の特徴に帰着させてきた。それでは視野が狭すぎるとするのが本書の主張。オウム真理教とはある意味典型的な近代のカルトであり、荒唐無稽な教義が多くの人々に対して説得力を持ってしまった背景には、近代社会が根本的に抱える問題があるというのだ。

元来、宗教は祖先崇拝に始まって、社会の中に深く埋め込まれて人々の生活や文化を律してきた。しかしヨーロッパで始まった近代化の流れにより、宗教は世俗的な権力から分離されてプライベートの領域に撤退してしまった。死者を弔うという宗教の中心的機能も、公の世界から私事の世界へ後退していく*2。宗教は個人の内面にかかわる主観的な現象と整理され、政教分離の主権国家内で「信教の自由」により保護される。その結果、私的な妄想と区別がつかないような宗教までが現れてくる。

近代社会は根本的に、歪んだ「宗教」が数多く発生するような構造を備えているのである。(p.45)

一方で、社会はその規模と複雑さを増し、アノミー的環境におかれた人々には拠り所となる宗教を追い求める傾向が出てくる。それに応えた思想的潮流であるロマン主義・全体主義・原理主義が、まさにオウム真理教の源流にあたる。豊富な事例をあげて、近代の欧米や日本に現れたこれらの宗教・思想がオウムの祖形としての性格を有していることが論じられていく。

宗教学なんて聞くと小難しそうなイメージがどうしてもするが、本書は、ロジックは明快だし説明も平易だ。高校で倫理や世界史を少しかじっていれば苦もなく読める。この方面に明るくないので、近代思想の簡単なお勉強までできた気分。上述のような問題意識に基づいているだけあって、広く一般に向けて書かれたのだと分かる。

さて、本書の最後で触れられているのだが、オウムのような他に例を見ないほどの活動的なカルトがなぜ現代日本に現れたのか、との疑問が残る。本書でもその仮説は提示されているのだが、こればかりは明快に解き明かすという訳にはいかないようだ。

閉鎖的な環境で長く活動していると、荒唐無稽な教義であっても周囲の影響や自分自身の行いによってどんどん強化されて、カルト内部の人間には「当たり前」になっていくメカニズムはあるだろう。オウムの最初の殺人から地下鉄サリン事件までは6年の歳月を要している。それだけの期間、怪しまれながらも閉鎖性を保って活動できた経緯は、もっと検証されてよい気がする*3


ぜんぜん本書の内容とは関係ないが、著者の大田先生は1974年生まれの一橋大学社会学部卒。もしかすると東校舎の廊下ですれ違っていたかもしれん。

*1:もちろん新たに捕まった人を除いて

*2:いわゆる葬式仏教とか

*3:すでにそういう検証もあるのかもしれませんが。そう言えば破防法をどうしようなんて議論もありましたね