『ひとの目、驚異の進化』マーク・チャンギージー  通説破りの痛快

ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ

ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ


ポピュラー・サイエンスと呼ばれるような読み物は、どんな人が書いたかで2つに大別できる。ひとつはプロのサイエンスライターが書いたもの。もうひとつは研究者本人が書いたもの。

ふつうサイエンスライターはテーマの周辺を幅広く取材してバランスのとれた本に仕上げる。また、ある特定の研究者に取材した伝記みたいな本もある。いずれにせよ文章が本職の人たちであり、読み物としてこなれている。

そもそも数多くいる研究者の中で、一般向けの読み物を書く意思と能力を持ち合わせている人は稀だ。そういう研究者がほとんどいない分野だってざらにあるに違いない。となれば、そこには基本的な科学リテラシーと取材能力、文章力を持ったサイエンスライターの出番がある。

けれど、もしその気のある書き手さえいれば、研究者が一般向けに書いた本の方が面白いことが多いように思う。代表格ではグールドやドーキンスがいるし、最近の日本でも福岡伸一*1、池谷裕二など売れっ子が登場している。また、本書の著者の同僚であった下條信輔も一般向けにかなり面白い本を書いている。

サイエンスライターが書いた本には、どうしても「調べて書きました」感とでも言うべきものが拭い難く漂っている気がしてしまう。いかに入念な取材をしようとも、人生の主な仕事としてある分野を研究している人間に比べれば、その知識の厚みの違いが書いた文章にも現れてくるのだろうか。

さらに言えば、サイエンスライターが取り上げるのは学界で通説となっている説が中心である場合がふつうで、少数説に肩入れして書くというのはなかなかやりにくいし、適当なことでもないと思う。ところが研究者本人が書いているのであればそんなことはない。もちろん通説でないことは明示した上でだが、自分が唱えている説であれば少数説であろうが構わずに書くのが当然だ。

この少数説を敢えて唱えるような本を読むのは楽しい。反証可能性が科学の本質だとすれば、批判と検証のプロセスを素人なりに追体験させてくれるのはありがたい。それに、内田樹書いていたことだが、少数意見を唱える人ほど他人を説得するにあたって丁寧に語る必要がある道理なのだ。

本書は、人間を中心とした視覚の進化について、極端な異説ということでもなさそうだが、なかなかユニークな新説を唱えている本だ。

例えば、色覚は果物が色づいているかどうかなどの判別のためだとか、人間の両目が前向きについているのは立体視のためだとか、どこかで聞いた覚えのあるような通説に、さまざまな証拠を示して挑んでいる。読んでみて必ずしも100%納得した訳ではないが、なかなか刺激的な論考だ。

ワタクシも「片目だと立体視ができないので不便」という常識を小学生の時に教わって以来漫然と信じてきたが、実はそうでもないらしい。片目であっても、運動視差*2などを手がかりに、ほぼ正確な奥行き知覚を得ることができるのだ。片目のパイロット、カーレーサー、外科医もいると言う。さらに一人称視点のテレビゲームをする時も、われわれは一つ目の視界を見ているようなものだが、あまり奥行き知覚の欠如で困ったりはしない。

では、両眼視は何のためにあるのか?本書ではヒトの祖先が森に住んでいた時代に遡り、その進化的な理由は”透視”能力のためであると唱える。ここでわざわざキャッチーなネーミングをするのはこの著者のサービス精神なのだが、詳細は読んでのお楽しみとしておこう。

他にも錯視の背後にあるメカニズムや、人間がかくも複雑な文字をサクサク認識できる理由などが述べられていく。

著者の語り口はユーモアたっぷりで親しみやすいが、「そこまでしつこくウケを狙いに行かなくてもいいんじゃないの」と少しうるさく感じる向きもあるかもしれない。それもライターではないご本人による本ゆえのご愛嬌かも。

*1:この人はもう半分エッセイストですね

*2:自分が動いた時に、遠くの物体と近くの物体とで視野の中を動く大きさが異なること