『贈与論』マルセル・モース  ポトラッチは人のためならず

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)


マルセル・モース、有名な社会学者である。これはその代表作。たまには重たい内容の本を読むかと手にとってみたのだが、じつは文庫本で300ページ程度、しかも半分くらいが註だったりするので、本文はたいへんコンパクトだった。

本書のおおすじ

まず、太平洋や北米の「伝統社会*1」における贈与の慣習を検証して、そこに見られる共通の要素を抽出していく。ポトラッチという名前はご存知の方も多いだろう。気前の良さを見せつけるために法外な贈り物をしあったり、あげるだけでは飽き足らずに貴重な財産をぶっ壊したりする風習である。そこで重要なのは、贈与には必ず返礼の義務が伴うということである。たとえ明示的に義務付けられていなくても、貰いっぱなしでは大変に具合が悪い。その観念はどの民族にも共通している。だからこそ、無謀に見えるポトラッチでも利益に無関心な訳ではなく、あくまでも贈与の相手に対し精神的な優位に立つことにポイントがある。富とは何よりも他者を支配する手段なのだとモースは看破する。

モースは返す刀で、ポトラッチに代表される伝統社会の慣習が、古代の法にその名残をとどめていることを、ローマ法、ゲルマン法などで例証していく。伝統社会での贈与の慣習が、売買になじんだ近代社会の経済観念と地続きであることを示すためだ。最終章で、モースはこれらの知見が近代社会に対して示唆することを述べる。例えば、社会保険や労働組合といった制度の裏づけを、伝統社会から綿々と伝わる道徳意識に求めていくといった具合に。

ごくごく簡単にまとめればこんな内容なのだが、一読しただけでは消化不良。コンパクトだし、部分々々の議論も明快だが、全体像としては簡単に飲み込めて終わりという本ではない*2。モース自身も、本書の議論を未完成であり、問題提起だとしている。たぶん後続研究がゴマンとあるところだろうとは思うが、読んでみて考えさせられた事もまとめておく。

感想というか解釈というか(推敲断念。メチャクチャとりとめなし注意)

モースは、経済的取引だけでなく儀礼、饗宴、軍事活動、婦人、子供などが、永続的な契約の下で、集団間で交換される伝統社会の体系を「全体的給付」と定義している。一方で、近代社会では貨幣を介した経済的取引の比重がずっと高くなっているわけだ*3。両者を隔てる要因はなんだろうか?モースは進化論的な社会観を持っているわけでもないようだし、「なぜ」伝統社会と近代社会で交換の体系が異なるかには踏み込んでいない印象である。

だが、それは難しい話ではなさそうに思える。社会の規模や複雑さ度合いによって、その社会の持つ交換の体系が規定されてくるのではないか。

規模が小さくて成員間の分業もさほど進んでいない閉鎖的な社会の場合を考える。日常的な取引の相手は、顔見知りに限られるだろう。同じような相手と、継続的に、似たような取引を何度も繰り返すことになる。そこで、一回一回の取引をきっちりと貨幣で清算することに対して「水くさい」という感覚が生じるのは現代人でも理解できるのではないか。また、ある取引で入手した/手放したものに対して、あとから後悔したりするのもよくあることだ。取引相手の顔が見えすぎていると、恨みっこなしで割り切るよりも、微妙な貸し借りの感情が生じるほうが自然だ。さらに、同じ集団内での労働力の交換ということで共同作業を想定してみれば、いちいち取引という感覚すら持たないだろう。

逆に貨幣の側から考える。いくつかある貨幣の機能のうちでも、もっとも根本的なのは交換の機能だ。貨幣を介することで、物々交換と比べてマッチングが容易になる。交換される品物や、時々の取引関係*4は多様だが、貨幣という尺度によってその多様性をひとつの数直線上に規格化してしまうのだ。その規格化は、社会が複雑化して分業の度合いが進むほどに、強く要請されるはずだ。また貨幣による交換があってこそ、現代のような高度な文明が成り立つことは疑いがないし、貨幣経済の匿名性は地縁などからの自由につながっている。

かくして自然の成り行きとして、単純な社会ほど全体的給付の様相を示し、社会が複雑になり分業が進むほどに貨幣の役割が増えていく。ニワトリと卵でどちらが先かの議論はあるかもしれないが、大方こんなところだろう。

では、貨幣による売買が主役となったわれわれの社会は、古い社会と比べて何が違うだろうか?

ひとつの面白い論点として、モノとヒトとの区別がある。現代では人の法と物の法とが区別されるが、アルカイックな社会では区別がない。物に人格が宿っていて、持ち主の手を離れても元に戻りたがっていたり、多くの交換を経た物には、そのストーリーから来る一種の箔が付いていたりする。一方、貨幣を介する取引は非人格的である。スーパーで買い物をするときに、買う人間が誰であるかはほとんど問題にならない。株式市場では売買の相手が誰であるかを知ることさえない。

あと留意すべきは、現代においても貨幣を介さぬ交換の関係は社会にしっかりと埋め込まれていることだろう。たとえば家族は典型例で、世代から世代へ無償の贈与が行われている。また会社勤めをしていても、貨幣に換算できない関係はふつうに見られる。社内で人に仕事を頼むのにイチイチ金額換算はしないが*5、そうした際には自然と「貸し借り」関係ができていないか。社内に限らず継続的な取引先でもそうだろう。そもそも給料はもちろん金銭だが、それは個々の労働力提供の対価というより長期的な契約の一環として支払われる点で、単なる売買より複雑な意味合いを持つ。

貨幣により分業が進み、自由を手に入れはしたが、まだまだ人間社会には全体的給付の時代からの考え方が息づいていると思ったほうが良さそうだ。「新自由主義」やら「市場原理主義」に人が反感を語るときには、そういった感情がベースにあるに違いない。しかし、経済学なんかで貨幣の働きについてはだいぶ理論化がされているが、より複雑な長期の関係を通じた贈与については、モースから100年近く経つのにまだ十分に理解が出来ていないのかもしれない。

ベッカー&ポズナーのブログで、また腎臓売買の議論がされていた。なかなか興味深いがうまく言えない違和感がある。その違和感を言葉にする鍵は、この『贈与論』みたいな研究の先にあるような気がする。さらに言えば昔*6は、人間でも平気で売買していたわけだ。もし腎臓を移植する技術があれば売買していたのではないか。これもヒトとモノの境界線の曖昧さで説明がつく?

*1:こういう風にいわゆる「未開」な社会を十把一絡げにした単語は本文中になかなか探し出せない。

*2:ボクの読解不足はあると思いますが。あと、新訳だそうだが訳もちょっとつらい気がした。

*3:ポトラッチは両者の中間に位置づけているっぽい

*4:需給バランスによって立場の強い弱いとかありますよね

*5:アメーバ経営なんてのもありますが

*6:イメージとして中世くらい